筑波研究学園都市とは

つくばの歴史と文化

今から約2万年前に寒冷期をむかえた当地方も1万2,000年前ごろになると気候も温暖となり人びとは一定の場所に村をつくり定住するようになりました。茨城県の縄文時代の遺跡のなかで、海洋に面した地形あるいは当時内海であった霞ヶ浦周辺には多くの貝塚が残されています。筑波山麓から南に広がる一帯は、比較的平坦なひろい筑波台地で、気候にも恵まれ、自然災害も少なく古くから生産活動の一中心地だったことがうかがえます。(1)
つくば地域の歴史と育まれた文化、研究学園都市の成り立ちについて紹介します。

筑波山

「紫峰(しほう)」「紫の山」の愛称で親しまれている筑波山は「西に富士、東に筑波」といわれるように関東を代表する名山です。関東平野のほぼ中央にそそり立つ勇姿は遠い太古の昔から東国の人びとに愛されてきました。

筑波嶺の新桑繭(にいぐわまよ)の衣(きぬ)はあれど君が御衣(みけし)しあやに着欲しも<万葉集>

筑波嶺の 峰より落つる男女(みな)のかわ 恋ぞつもりて 淵となりぬる<陽成院>

春立つや見古したれど筑波山<一茶>

など、古くから多くの詩歌にも歌われ、文人・庶民の別なくひろく愛されてきたことがうかがえます。

筑波山神社は、山の中腹海抜約250メートルのところにあり、西峰(男体山)と東峰(女体山)を神体とし、男女二柱の祖神が祀られました。その後「いざなぎの神、いざなみの神」と日本神話で伝えることから、筑波の大神も「いざなぎ、いざなみ両神」として仰がれています。鎌倉時代にはいって、常陸国守護八田知家(小田氏の祖)の子八郎為氏(ためうじ)は筑波国造の名跡を継いで筑波山別当となりました。

以降、鎌倉幕府が社領を寄進したり、戦国時代の武将が数多く戦勝祈願の願文を寄せたりしている事実をみても、筑波に寄せる篤信のほどが理解できます。江戸時代になっても幕府の外護を得た筑波山は、以後幕末に至るまで神仏習合の霊山として発展しました。明治初年、壮麗を誇った大御堂など多くの堂塔が破壊され仏像・仏具が破壊されましたが、跡地は筑波山神社として再興され1873年(明治6年)に県社となりました。 (2)(3)

宮脇駅からケーブルカーで登ると男体女体二峰のあいだの平坦な部分が御幸ヶ原です。山上の男大神と女大神が往きし給うところからこの名がありますが、ここからの眺望がすばらしく、晴天の時には霞ヶ浦や遠く太平洋、富士山まで見渡すことができます。

御幸ヶ原から女体山頂に登る道の左側にガマガエルの形をしたガマ石があります。筑波山といえば「ガマの油売り口上」が有名ですが、その歴史は古く、所伝によれば、知足院別当光誉(こうよ)上人がガマの油の発明者といわれています。徳川方の勝利を祈願すると同時に傷病兵の看護にあたった際に用いた傷の手当薬がよく効いたのでたいへん評判になったといいます。

その後、江戸時代に永井村に生まれた兵助が考案した宣伝文がいまに伝えられているガマの口上になったといわれています。膏薬「ガマの油」の販売文句「ガマの油売り口上」は、つくば市認定地域無形民俗文化財となり、茨城県の伝承芸能となっています。 (2)(4)

男女(みな)の川は、筑波山を象徴する川で、御海(みうみ)と呼ばれる水源地にその源を発して男体山と女体山の間を流れる渓流です。水源が筑波二神の社地の下あたりに発するところからこの名になったといわれ、末は桜川へ注いでいます。「筑波嶺の 峰より落つる男女(みな)のかわ 恋ぞつもりて 淵となりぬる」に代表されるように、男女の恋を歌った歌の名所として古くから親しまれてきました。 (2)

開業100周年を迎えた
ケーブルカー

筑波山ケーブルカーは、年間40万人以上が訪れる観光客に欠かせない移動手段で、全長1634メートル、標高305メートルにある宮脇駅と男体山山頂近くの筑波山頂駅を約8分で移動できます。

筑波鉄道の開通によって多くの参詣者が筑波山を訪れるようになったことを背景に、筑波山観光の利便性向上を目的として1925年(大正14年)10月12日に営業を開始しました。

太平洋戦争により営業休止を余儀なくされた時期もありましたが、1954年に再開し、長い歴史とともに歩んできた筑波山ケーブルカーは、地域や観光に訪れる人たちに愛されて開業100周年を迎えました(2025年10月12日)。 (5)(6)

筑波山への登山客を運んだ
筑波鉄道

筑波鉄道は、大正7年(1918年)4月、土浦から筑波間が開業、9月に岩瀬駅まで全通しました。1925年筑波山ケーブルカーが開業すると乗客が増加、さらに、上野駅から筑波駅間に直通臨時列車を走らせると、筑波山への登山客輸送も好調となりました。戦後の昭和30年代を最盛期に筑波山の観光客輸送に力を注ぎ、国鉄からの直通列車が多数乗り入れました。

昭和40年に412万人だった旅客数は、昭和50年には298万人、昭和60年には130万人に徐々に減少。モータリゼーションの進行により昭和62年に運行を終了、廃止されました。廃線となるまでの69年間、近隣住民の生活の足としても活躍し、車窓から霊峰・筑波山を望むことができる列車は観光客からも愛され、筑波駅は筑波山の玄関口として賑わいました。

廃線後、線路跡はほぼ全線がサイクリングロード(愛称つくば霞ヶ浦りんりんロード)として整備され、多くの駅のホームなどが残され旧駅舎を利用した休憩所もあるなど魅力的な自転車道となり、筑波鉄道は大きく生まれ変わりました。 (7)(8)

八幡塚古墳

筑波山南麓は県内でも古墳の多い地域であり、八幡塚古墳は全長約90mあり桜川流域でも最大規模の前方後円墳です。前方部の大半はすでに失われていましたが、現在は前方部の形態が概ね復元されています。後円部は、比較的原形を残しており、墳頂は径約20メートルの平坦地で中央に八幡社の小祠があることから、八幡塚と呼ばれています。後円部から埴輪が出土しており6世紀前半に築造されたものと推定されています。

稲作文化の栄えた弥生時代後期から、村々が次第にまとまり権力者が現れ、地域を統治するようになり、古墳が作られるようになったと考えられています。霞ヶ浦沿岸またそこにつながる河川地域は、古代より水陸のめぐみ豊かな場所でした。河川交通、湖上交通の要所に古墳が多くみられ、被葬者は政治・経済・軍事を掌握していたことがわかります。 (1)(2)(9)(10)

平沢官衙遺跡(ひらさわかんがいせき)

いまから千年以上前の奈良・平安時代の常陸国筑波郡の郡役所跡と想定される遺跡です。昭和50年(1975)の調査で重要な遺跡であることが判明し、昭和55年に国の史跡指定を受けました。

平成5年から6年度(1993~4)には復元整備事業を計画して、本格的な調査を行い、一般の遺跡ではみられない大型の高床式倉庫と考えられる建物が数多く並び、それらを大きな溝が囲むという遺跡の全容が確認されました。

これらの倉庫跡は、そのころの税である稲や麻布などを納めた、郡役所の正倉跡と考えられます。この貴重な文化財を後世に伝え、活用するため、校倉、土倉、板倉の3棟の高床倉庫を復元して古代空間が再現されています。 (1)(2)(10)(11)

小田城跡

建久3年(1192年)に征夷大将軍となり鎌倉に幕府を開いた源頼朝は、全国に守護・地頭を設置して幕府政治の基盤をかためていきました。常陸国の守護に任じられた八田知家が筑波山南麓に城郭を構えたのが小田城の始まりといわれており、以後子孫は小田氏を称してこの小田城を拠点に天正末の戦国時代の終わりまで約400年にわたって常陸豪族の雄として君臨していきます。八田知家は、頼朝の死後も十三人の合議制の一人として加わるなど鎌倉幕府の有力な御家人であったといわれています。

鎌倉時代末期になると、反幕勢力が畿内を中心として起こり、時代は戦乱の南北朝時代へと推移していきます。小田治久(はるひさ:7代)は、南朝勢力の挽回を図るため伊勢から東国へ向かっていた北畠親房(きたばたけちかふさ)を小田城に迎え入れ、小田城が一時関東地方における南朝方の中心となりました。足利尊氏の部将高師冬(こうのもろふゆ)に攻められ、親房は夢破れて吉野に引き上げることになりますが、親房が在国5か年の間、小田城で抗戦のかたわら利害に揺れ動く東国武士の心をつかむべく、南朝後醍醐皇統の正当性を説いた「神皇正統記(じんのうしょうとうき)」や後村上天皇のために「職原抄(しょくげんしょう)」を著したことは有名です。

その後も常陸国は大小の豪族が各地に割拠して戦乱がうち続きました。戦国時代にはいると、小田城は関東支配をもくろむ北条氏(小田原)と関東管領職に就いて覇権をうかがう上杉氏との間で争覇の焦点となり、城は幾度も合戦の舞台となりました。新興の豊臣秀吉と組んだ佐竹氏が巧みに支配領域を拡大する中、城主小田氏治(うじはる:15代)は懸命に佐竹勢に抗戦しましたが戦い利あらず、天正年中、八田知家以来続いた名族もついに滅亡しました。その後、佐竹氏は関ケ原の戦いで積極的に徳川家康の味方をしなかったことから、出羽国秋田地方に転封され小田城は廃城となりました。

近年まで積極的に発掘調査が行われ、「小田城跡歴史ひろば」として公開されています。現在も本丸跡は周囲に土塁跡が残り、堀に囲まれ、その外側にもさらに曲輪(くるわ)・堀跡がめぐっています。堀跡は水田などになっているものの、往時の規模をしのばせています。 (1)(2)(10)(12)

研究学園都市の建設

昭和30年代後半、日本の経済は戦後復興を経て未曽有の成長へと向かい拡大の一途をたどっていました。東京都の人口は全国各地からの流入によって急激な膨張を続け、昭和30年(1955年)には約800万人だった人口が昭和37年(1962年)には1,000万人を超えました。

昭和39年の東京オリンピック開催をめざして、東海道新幹線、首都高速道路、モノレール、地下鉄などの大工事がすすめられ、都市の姿が一変するなかで、東京への人口集中はいっそう拍車がかかり、東京の住宅、上下水、道路、交通機関等の都市基盤や都市施設の整備の立ち遅れから、人々の生活や仕事に様々な支障をきたしていました。

当時は、問題の解決に向けて活発な議論が行われ、そうした議論の中には、国の政治や行政など首都東京が受け持つ役割を地方へ移す遷都論や東京湾を大々的に埋め立てる首都拡張論などがありました。こうして首都への人口増大がもたらす弊害を解決することが、政府の重要な課題となっていきました。

そういった状況のなかで、政府も首都機能の中心である官庁を集団的に移転させる構想のもとに新都市建設の実現に向けて、昭和36年(1961年)9月には、次のような決定がなされました。

「首都への人口が過度に集中するのを防ぐため、各種の防止対策を強化しなければならない。そのためまず、東京都内の市街地になくても、機能上さしつかえない官庁(付属機関や国立の学校を含む)の集団移転について、すみやかに検討する。」
つくばに新都市を建設する計画もこの政府決定にはじまるといわれています。

当時、各省庁の研究機関の多くは施設や設備を改善し、研究環境や研究体制を刷新する必要に迫られていました。新都市の建設計画に関心をもつところもありました。一方、大学教育においては、ベビーブームによって大学生が急増するため、東京の大学は学校建設の拡充を迫られていました。

こうした背景もあり「研究地区」と「学園地区」からなる新しい都市の建設について基本構想がまとまり、まず第一弾として国の研究機関と大学を移転させてつくる「研究学園都市」の建設に的が絞られていきました。昭和38年(1963年)9月10日の閣議において、以下の3項目について了解されました。

  • 1.研究・学園都市の建設地は、筑波地区とする。
  • 2.研究・学園都市の計画規模はおおむね4,000ヘクタールを予定する。
  • 3.研究・学園都市の用地の取得造成は日本住宅公団に行わせる。

ところが、新都市の建設用地を全面買収によってまかなうことを前提にしましたので、その予定地となる区域の人びとの宅地も田畑もすべて買収の対象になり、多くの人が衝撃を受けました。

茨城県は、この問題の解決にあたり、地元の要望を最大限に考慮して、農家が今後とも農業を続けていけるよう、農業を続けるのにほとんど影響のない平地林などに限定し、計画区域を縮小するよう当局に求めました。

昭和39年(1964年)、茨城県は国に対しあらためて研究学園都市の建設を正式に受け入れることを表明するとともに、要望書を提出し、計画区域をさらに2,700ヘクタールに縮小することを提案しました。 (13)(14)

  • 1963年(昭和38年)研究・学園都市の建設地を筑波地区とする閣議了解
  • 1969年(昭和44年)新住宅市街地開発事業着工
  • 1970年(昭和45年)「筑波研究学園都市建設法」制定・施行
  • 1973年(昭和48年)筑波大学開学
  • 1980年(昭和55年)43の試験研究・教育機関等の移転完了
  • 1985年(昭和60年)国際科学技術博覧会開催、常磐自動車道開通

建設計画を法制化することが、建設プロセスをスピードアップする上で重要かつ効果的な役割を果たしました。1980年までに多くの国立大学や研究機関の移転が完了し、順次、職員が移住し活動がはじまり都市として機能し始めましたが、都市インフラの大規模な建設は国際科学技術博覧会の開幕まで続きました。 (13)(14)(15)

国際科学技術博覧会
「科学万博つくば85’」

1985年には筑波研究学園都市で「人間・居住・環境と科学技術」をテーマに総額6,500億円を投じた「科学万博つくば85’」が開催されました。人類の生存と科学技術とのかかわりを問い直そうとする意図のもと、科学技術の平和利用の可能性と科学技術が開く21世の将来像を示すことに国際的にも多くの賛同を得ることができました。

このように科学万博は国内の28の企業・団体のパビリオンが設けられ、海外からも47ケ国、37国際機関が出展するという、世紀の祭典となりました。会期中の入場者は2,033万4,727人、1日平均10万人を超える来場者が184日間にわたってつくばを訪れ、科学の持つ力と感動を多くの人びとに伝えました。さらに、この科学万博を通じて、まだ広く名の知られていなかった「つくば」の名が、一挙に日本の科学技術研究の最先端を行くセンターとして内外に知られることとなりました。 (10)

国際科学技術博覧会が昭和60年(1985年)3月開催と決定され、新都市のお披露目となる開幕に向けてセンタービルに続く新施設の整備が急ピッチで進められました。谷田部町の筑波西部工業団地の用地が主会場となりましたが、第2会場となった都心会場の中央公園の北隣りに位置する区画には、日本政府出展の大型パビリオン「つくばエキスポセンター」が建設されました。世界最大級のプラネタリウム、多目的利用の映像ホールなどを擁する科学館で、研究学園都市の恒久的な文化施設となりました。

また、3月17日の開幕から閉幕の9月16日までの184日の間、つくばセンター交通広場と谷田部町の主会場との間をシャトルバスが往復し、都心会場へ観客を運びました。このターミナルビルは、住宅・都市整備公団のPR館「まちとすまい館」として使用され、博覧会閉幕後はただちに交通広場のターミナルビルとして機能し、のちに東京駅とを結ぶ高速バスの運行が開始されました。

国際科学技術博覧会の主会場として利用された谷田部町の筑波西部工業団地の用地は、博覧会閉幕後は高水準の工業団地用地として整備されました。そのほか、テクノパーク豊里、テクノパーク大穂などの工業団地も開発され、多くの民間研究所や工場が立地することになりました。こうして民間企業のつくば進出が、研究開発のうえでも、地域開発のうえでも重要な要素としてクローズアップされていきました。 (13)(14)

国際科学技術博覧会を経て、1986年以降、周辺開発地区に多くの工業団地の建設が進むとともに、大穂町、桜村、豊里町、筑波町、谷田部町、そして茎崎町が合併し、つくば市が誕生することで、都市の拡大期へとつながっていきます。1999年には、筑波研究学研都市の中核的なコミュニケーション施設としてつくば国際会議場がオープンしました。

1996年には、科学技術が我が国の将来の発展の基盤であるという認識のもと、第1期科学技術基本計画が策定されます。2001年には第2期科学技術基本計画が策定され、筑波研究学園都市への期待と要望は高まっていきました。同時に国立研究機関が独立行政法人に転換され、2004年には筑波大学が国立大学法人として再編されました。国の行政改革や科学技術政策の転換と重なったこの時期に、東京の秋葉原とつくばを結ぶつくばエクスプレス(TX)の開業により、2005年、TX線沿線の大規模な開発計画が進んでいきました。新しい都市の形成と開発は、都市の拡大や東京への直結といった物理的な変化が見られ、筑波研究学園都市に大きな変化をもたらしました。

  • 1986年(昭和61年)周辺開発地区の工業団地の整備に着手
  • 1987年(昭和62年)町村合併によりつくば市誕生
  • 1996年(平成8年)第1期科学技術基本計画
  • 2001年(平成13年)第2期科学技術基本計画
  • 2005年(平成17年)つくばエクスプレス開通
  • 2006年(平成18年)第3期科学技術基本計画

2006年から第3期科学技術基本計画の策定をうけ、筑波研究学園都市が国際研究拠点として機能のさらなる強化とともに、環境対策の分野など大きな期待が寄せられるようになりました。日本政府は、2050年までに世界の温室効果ガス排出量を現在の半減にすることを目指す「クールアース50」構想を提唱しました。

この目標を達成するために、日本は先端技術と伝統的な社会構造の組み合わせを活かして世界に貢献し、環境大国としての地位を確立し、この取り組みに沿って「つくば3E(環境・エネルギー・経済)フォーラム」が設立されました。同フォーラムでは、2030年までにつくば市の二酸化炭素排出量を半減させるという目標を掲げました。そのために、「つくば3Eフォーラム」のメンバーは、産学官民が一体となって研究開発の利益を社会に還元することを誓いました。

つくばは「環境モデル都市」として、その成果を国内外に発信し、「つくば環境スタイル」を目指し、地球温暖化の抑制に貢献していきます。公的な教育・研究機関だけでなく、市民、産業界、行政が一体となって取り組むことで「つくば3Eフォーラム」は、つくばを国際的な低炭素排出の拠点、世界のモデルにすることを目指すという意味で、第4期科学技術基本計画の一歩先を行くものとなりました。 (13)(14)(15)

2016年にはG7茨城・つくば科学技術大臣会合、2019年にはG20茨城つくば貿易・デジタル経済大臣会合の開催地になるなど、科学の街として実績を着実に積み重ね、2022年には「スーパーシティ型国家戦略特区」の指定を受けました。現在約150の研究機関で働く研究従事者は約2万人、外国人研究者・留学生は約5000人滞在しており、世界有数の優れた人材が活躍する都市として今なお発展を続けています。 (16)(17)

サイエンス×アート

近年、つくばでは、文化とは蓄積してくものという認識にたち、長年の筑波研究学園都市として蓄積されてきた歴史や生活、文化を意識した取組も始まっています。つくば市民にとって芸術文化がより身近なものとなるよう基本理念を「アートで編む」とするつくば市文化芸術推進基本計画が作成され、多様な領域の専門家との連携も進んでいます。

2014年度にスタートした「つくばメディアアートフェスティバル」は、科学の街つくばの特色をいかしたつくばならではの文化の発信を行っています。2025年度は、筑波大学が輩出する国際的アーティストや学生たちによる分野を超えテクノロジーと芸術が融合した作品の数々が展示されました。つくばサイエンスハッカソン2025では、高エネルギー加速器研究機構にアーティストが滞在し、研究者たちと様々な対話からインスピレーションを得て制作された作品の展示などが行われ、大阪・関西万博にも展示されました。 (18)(19)

まつりつくば

毎年8月下旬に開催されるつくば市最大の夏祭りです。つくば駅周辺に複数の会場があり、つくば自慢の品など様々なグルメが勢ぞろいする出店や、演奏やダンスが披露されるステージなど、多彩なイベントが開催されます。

昭和56年(1981年)に有志によって始まり、筑波研究学園都市ならではの多様な文化が融合した祭りで、地元伝統と最先端の科学が一体化した、つくばならではの夏の風物詩となっています。平成26年(2014年)からはつくば市長を本部長とする「まつりつくば大会本部」が結成され、毎年地元の人はもちろん県外からも40万人以上が訪れるイベントとなりました。 (20)(21)

つくばラーメン激戦区。

つくば市内にはラーメン専門店は約100店舗、ラーメンを食べられる店は約200店舗あるといわれています。茨城最大のラーメンイベント「つくばラーメンフェスタ」が2012年から開催されるなど、ラーメン文化が非常に盛んな地域です。

つくば市には、熱烈なファンが多くいる店、何十年も同じ味を提供し続けている店、行くたびに新しいメニューが登場する店など、個性を持った店舗が多いのも特徴で、行列のできる人気店が数多くあります。

そもそもなぜつくばがラーメン激戦区になっているのでしょうか。一般的には、ある程度の客数を見込める場所で、公共交通機関等でアクセスが良く、買い物や観光などで多くの人が行きかう場所が激戦区になるといわれています。

そういった諸条件に加え、ここつくば地域はもともと、老舗の中華店や古くからのチェーン店も数多くあり、ラーメン文化が根付いていたと考えられます。筑波研究学園都市の建設に携わった人たちや移り住んできた人たちが手軽に食べることができ、また世界からも多くの人たちが訪れる場所でもあるといった多様性の中で育まれ蓄積された文化ともいえそうです。 (22)(23)(24)

参考文献

筑波研究学園都市交流協議会は、産学官民が連携し、真に住み良い成熟した都市づくりを目指しています。この取り組みに参加し、未来のまちを一緒に育てていきませんか?